2007/01/29   「新高山登レ 一二〇八」、ハワイ攻撃の暗号電報が発信されたのは12月2日。奇襲攻撃成功を知らせる「トラ・トラ・トラ」の打電。そして『大本営陸海軍部午前六時発表。帝国陸海軍は本八日未明、西太平洋において米英軍と 戦闘状態に入れり。』昭和16年12月8日朝の臨時ニュース。日本が、日本人が今も反省してやまない大きな負の遺産を背負うことになった。その翌々年生まれの戦中派として、戦争の悲惨さ・愚かさと歴史に直視するために、その歴史的地を訪れた。

下記は、単純に我々が行動した順に配列掲載しています。特に博物館と屋外展示は、立ち寄ったものの時間切れで、詳しく閲覧するには至らなかった。誠に残念。
    索引 1行き方  2.ビジターセンター  3.シャトルボートで渡る。  4.海中に見るアリゾナ  5.記念館  6.屋外展示(沿岸側)  7.博物館  8.パンフレット

 Arizona シャトル・ボート・発着場

真珠湾という言葉は、老いも若きも、日本人にとって独特の感慨のこもる響きだ。

美しい響きと裏腹に、その裏に隠された、過去に日本が引き起こした、あまりにも悲惨な戦争への反省がこもっている。

戦争の発端となった現場「真珠湾(パールハーバー)」に立った。

楽園のようなハワイ。海だ、グルメだ、ショッピングだ、と大勢の日本人がハワイを訪れているが、すぐ近くのここまで足を伸ばす日本人は、非常に少ないという。現に今回のツアーでも、訪れたのは他に一人もいなかったようだ。

海中のアリゾナがよくわかるので転用。


中央細長く白い建物がアリゾナ記念館。

アリゾナに関するホームページ紹介
USS ARIZONA MEMORIAL
Arizona Memorial Museum Association (AM
MA)

1941年12月7日(日本時間では8日)の朝、日本海軍機動部隊は飛行機353機をもってパール・ハーバーに停泊中のアメリカ太平洋艦隊主力艦および同島の航空基地を奇襲した。その結果、戦死2,390名、という大被害を与えた。 このような惨事が二度と起こらないように、1,100名を超える乗員を乗せたまま海中に没した軍艦アリゾナ号の上に記念館「アリゾナ・メモリアル」が1962年に建てられた

ワイキキからでは、バスかタクシー。我々はリムジンをチャーターした。ドライバーのシゲさんによると、 ビジターセンターは、セキュリティーの関係上、手荷物チェックが厳しい。カメラはOKだがバッグやウエストポーチなどの持ち込みが出来ないとのことなので、車においていった。 このような説明のお陰で、無駄な時間を使わないで安心出来る。

正面がビジターセンター

ビジターセンターから、パーキングを振り返ったところ。ピンクの○に、乗ってきたリムジンの前半分が見えている。
センター・記念館のすべてを、日本語で案内してくれるヘッドフォンが借用出来る。有料だが大変便利だった。(5$)

ビジターセンターに着くと、まずこの巨大な錨が目にはいる。海に沈んでいるアリゾナから引き上げられたものだ。入口脇にも、同じく引き上げられた鐘が飾られている。

入ると、真正面にはアリゾナの大きな油絵。

このエントランスホールにあるインフォメーションデスクで映画の整理券(下の写真参照)を手にするが、今後はその番号順に進むことになる。

入場料は無料。

記念館は海上にあるため、このビジターセンターから、海軍が運行するシャトルボートに乗らなければならない。そのためにはここで23分の映画を見ることが義務づけられている。

この券の番号は、シアターに入るとき時とシャトルボートに乗るときのグループ分けを意味する。

我々は、本日の「18」番目のグループということになる。来館順で予約はいっさい取らないことから、せっかく来ても混雑していれば見られないこともあるそうだ。

幸いにして、我々が到着したときは、前の前のグループが映画を視聴しているところだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ツアー用に借用したヘッドホンからは

「ここは人々を憎ませるための場所ではなく、平和をつくる場所である。」

耳に残る言葉である。

順番が来るとシアターにはいる。

当時の貴重なフィルムを見る。23分の上映時間だが、真珠湾攻撃のみならず、世界が大戦へ向かって進んでいく過程も説明されていて、あっという間の時間だった。

たいへん後ろめたさを感じ、思わず周りを見回すが、日本人としての我々に対する蔑視の視線は見られなかった。

 


前方のアリゾナ記念館に向かう。

後方にはビジターセンターが見える。

フォード島に渡る橋が見える。

繋留された退役戦艦「ミズーリ」

時間にして十数分。まもなく接岸。

記念館の脇にアリゾナの一部が見えてきた。

シャトルボートから、桟橋を歩いて、海上に浮かぶように造られた記念館に乗り移る。

この真下には、日本軍の奇襲で攻撃され、9分後には1177名の乗組員とともに沈められたままになっている。

心の中で手を合わせ、厳粛な気持ちになる。

いよいよアリゾナの真上に立つ。

入り口となっているこの狭い通路を抜けると、内部は広くて、中央部は吹き抜けていることから、開放感のある空間だった。

海面下には沈没当時のままのアリゾナ号が保存されている。日本軍の不意打ちにより戦死した1177名の遺体が、今も共に水の下に沈んでいる。
日本人として、その真上に立つことはとても勇気のいることだ。船体から今でも流れ続けている重油が無言のメッセージを送りつづけているようだった。 両側の窓から沈んでいる戦艦アリゾナを見ることができる。アリゾナの表面にはびっしりと貝が付着し、海上に突き出している赤く錆び落ちた主砲台の回りからは、今も油が流出していて、何とも痛い痛しさが増してくる。

戦艦アリゾナの記念碑


3番回旋砲塔の台座


左写真の青い部分を見ると、3番主砲回旋砲塔の台座とある。

その奥に浮かぶのは戦艦「ネバダ」の記念碑


3番回旋砲塔の台座


海面には、今なお漏れ出ているオイルが、あちこちに見られる。

 煙突部分と思われる。中を覗くと、腐食が進んでいる。


この列3枚は、記念館中央部の開口部分から見たアリゾナ。


以下は、記念館の西側部分、アリゾナの後尾側に当たる。
 
左手は桟橋



左が戦艦「ミズーリ」
、右はベスタルの記念碑


写真右手の方には、戦艦「ネバダ」の記念碑もあった。


記念碑に見入るアメリカ人たち。 想いは・・・。

記念館内部の壁一面の記念碑には、全員の名が刻まれていた。

パールハーバーの海上に建設された白亜の慰霊塔だ。その場所に立つとすぐ足の下の海の中に、巨大な戦艦アリゾナが水没しているのが、波の合間に見ることができる。

ここで、当時一瞬にして亡くなられた1177名の戦死者の方の名が刻まれた慰霊碑の前に立つと、言葉が出ない。

多くの遺体が、今も戦艦アリゾナと共に水の下に沈んでいるとのことだが、来てみて言葉で言い表せない特別な感情が湧いてきたのは確かだ。彼らは何を問いかけているのだろう。

日本人として、ここに立つことはとても勇気のいることだったが、やはり来てみて良かったと思う。。

 

左手奥が、名前が刻まれた大理石の壁。

館内は吹き抜けで、開放的だ。


中央から見上げると、星条旗がかかげられていた。

中央部は床の部分があいて、海中が見える。


記念館完成の記念プレート。

水没しているアリゾナの見取り図。

海軍のシャトルボートに乗って、ビジターセンターに戻る。

誰も口数少なく、沈んでいた。

今は平和なこの風景だが、この右手の方向から日本の爆撃機が飛来したと言われている。

右の写真奥に見えるのは潜水艦ボウフィン号

備忘録として、真珠湾に関する、これまでの関わりについて、銘板に刻まれていた。

このほか、次の4つのコーナーに分けられ展示されていた。

1.(日本軍の)攻撃模様
2.(アリゾナ記念館方向の)北西のパノラマ風景
3.(当時の)戦艦停泊場
4.船隊の敗北と復活

1.(日本軍の)攻撃模様

 

パネルのタイトルは、「Sundsy Morning」

平和な日曜日の朝、水兵達が掃除をしている。一方同時刻に、西太平洋上の航空母艦を発信する日本軍の艦上爆撃機。

1枚のパネル内に対照的に納められていて、いかに日本軍の攻撃が奇襲だったか窺い知れて興味深い。

日本軍攻撃隊長 淵田美津雄中佐。

1941年12月8日(ハワイ時間では7日)、日本軍はアメリカ太平洋艦隊が本拠とするハワイ・オアフ島の真珠湾に奇襲攻撃をかけた。淵田美津雄中佐はこのときの攻撃飛行機隊総指揮官で、爆撃機上から真珠湾攻撃を指揮し、奇襲成功を意味する「トラ、トラ、トラ」という有名な電文を発した人だ。

戦後はキリスト教の伝道師となってアメリカに渡り、イエス・キリストの福音を伝える働きをした人であることを今回初めて知った。

2.(アリゾナ記念館方向の)北西のパノラマ風景

 

フォード島の、アリゾナ停泊地の方向の今と当時の写真

アリゾナ記念館の航空写真には、下に沈むアリゾナがよく見て取れる。

3.(当時の)戦艦停泊場

 

アメリカ艦隊の停泊位置が詳細に記載されている。

2列縦隊に停泊している前から(右から)2列目のフォード島側に停泊しているのが、攻撃前のアリゾナである。

4.船隊の敗北と復活

 

攻撃で爆発炎上するアリゾナに、必死で消火作業する様子と、この一帯の復活の様子がカラーパネルで紹介されている。

この記念館と直接関係はないが、戦時中使用された潜水艦ボウフィン号が、すぐ近くに係留されている。

潜水艦の中を見学したり、日本軍の人間魚雷など、興味深い資料が展示されているらしいが、行く時間はとれなかった。

 

博物館には、アリゾナに関する資料でびっしりである。

これは中央部に飾られたアリゾナの模型。

 

他に、ショップも併設されていて、アリゾナに関するあらゆる資料が手にはいるようだったが、時間がなく、入口から覗くだけが精一杯で、急ぎ車に戻るために退散した。

アメリカでは、国立公園等を訪問したときに配布されるパンフレットは、合衆国内務省国立公園課で制作され、同じ形式になっている。このアリゾナ記念館では、写真のように、日本語のものが用意されていて、日本人訪問客へも便宜が払われていた。 これを読むと、アメリカ人の心がわかる思いがするので、転栽することにした。

<表のページ 要約>

戦艦アリゾナは、1941年12月7日に命を失った1177名の船員達が最期を遂げた場所であり、永遠の休息地でもあります。約56メートルある記念館は水没した戦艦をまたぐ形で建てられ、玄関と待合室、セレモニーと一般見学用に設計された中央部、戦艦アリゾナ上で戦死した人々の名が大理石の壁に刻まれた部屋の3つのセクションから成り立っています。
           
記念館の設計をした建築家アルフレッド・プライスは次のように語ります。「中央部が低くなっており両端が力強く頑丈なイメージのこの設計は、最初の敗北と最終勝利を表現しています。総合的印象は一つの平静です。この建物はただの悲しみの象徴ではなく、ひれを見た人々にそれぞれの反応や感情を感じてもらいたいのです。」

<略>注意事項など一般的な案内がありますが、割愛しました。

<中側のページ 全文>

「不名誉の日」(The Day of Infamy)

1941年12月7日

真珠湾攻撃は、中国と東南アジア地域征服をめぐって悪化していた日米関係を最悪のものとしました。1931年.日本陸軍の過激派が政府の方策を無視して、満州の中国北部地域のほとんどを侵略した時に事態は悪化し始めました。そして1937年の夏、日本はアメリカの抗議をを無視して、中国の残りの地域に総攻撃をかけたのです。その行動に驚きはしたものの、アメリカやその他の極東諸島は、日本軍の侵略阻止のために軍力を使いる事は望みませんでした。

その後の3年間、ヨーロッパでも戦争が始まり、日本は日独伊枢軸同盟でナチ・ドイツと手を組みました。アメリカは日中戦争を解決させるために日本に外交的及び経済的圧力をかけました。日本政府はそうした措置−特に日本への油の輸出禁止−を国家安全の脅迫とみなし、1941年の夏、両国は国会威信の失墜なしで手を引くことは出来ない立場に立たされました。日米政府は両国間の相違について交渉をし続けましたが、日本側はすでに戦争を決意していました。

真珠湾攻撃は、アジア、西太平洋における征服の主要戦略の一部でした。目的は、アメリカに日本のその南部侵略計画を妨害されないために太平洋艦隊を戦力不能にすることであり、真珠湾攻撃の総指揮者は、日本連合艦隊司令長官の山本五十六海軍大将でした。山本大将は、開戦不可避の場合、日本を勝利に導く唯一の手段は、速やかに決定的な勝利を得ることであると提唱していました。戦争が長引けば、日本よりもはるかに優勢な経済力と工業力を保持するアメリカには日本は太刀打ちできないことを知っていたのです。

11月26日、6隻の空母を含む33隻の戦艦と補助船舶で構成された日本軍の攻撃艦隊が、日本の北方からハワイ諸島に向けて出航しました。通常航路よりはるか北方に迂回ルートをとり、1941年12月7日早朝までにはその停泊地点、オアフ島北方425キロの海域に到着しました。午前6時、それぞれ2名の船員と2つの水雷を乗せた5隻の特殊潜航艇が、真珠湾入口から約22.2キロ離れていた”母”潜水艦から発艦され、アメリカ艦隊に出来るだけの損害を与えるべく、航空攻撃が始まる前にひそかに真珠湾内に侵入を試みていました。

一方真珠湾内では、185隻のアメリカ太平洋艦隊が平穏に碇泊していました。8隻ある艦隊戦艦のうち7隻はフォード島の東南側に”戦艦烈”となって繁留されていて、海軍の飛行機はフォード島、カネオへ湾海軍航空発着地、そしてエバ海兵隊航空発着地に整然と並べられていました。さらにアメリカ陸軍航空隊の飛行機は破壊活動防止のため、ヒッカム、ホイーラー、ベローズの各飛行場にまとめて置かれていました。

午前6時40分、駆遂艦ワードの乗組員は、真珠湾に向かっていた小さな潜水艦の展望塔を発見しました。ワードは直ちにこれに向けて爆雷と砲撃を発射し、敵艦を沈め、このことを基地司令部に無線で報告しました。7時前、カフク岬の近くにあるオパナ・モービル・レーダー基地では、北方から接近中の航空機の大編隊をその映像に捕らえました。しかし、その編隊は空母エンタープライズを発艦し警戒中の見方機か、米本土から飛来が予定予定されていたB−17編隊のいずれかとみなされたため、何の処置も取られませんでした。

日本の第一波攻撃隊は、午前7時55分になろうとする頃、攻撃目標地点に到着しました。そして第一派攻撃隊長、淵田美津雄海軍中佐は母艦に向け、「攻撃開始、奇襲成功なり」を意味する暗号電報、「To、To、To」と「トラ、トラ、トラ」を打電しました。

午前8じ6分頃、戦艦アリゾナが大爆発。1発800キログラムの徹用爆弾がその甲板に命中し、前方弾薬庫に点火したのです。被爆後9分足らずでアリゾナは、1177名の乗組員を巻き添えに海底へ沈没し完全喪失となりました。そして数発の魚雷が命中したオクラホマも、400名以上の乗組員を艦内に閉じこめたまま転覆。標的艦に転用されていた戦艦ユタも、50名以上の乗組員を閉じ込めたまま転覆し、戦艦カリフォルニアとウエスト・バージニアは、それぞれの係留地点で沈没。メリーランド、ペンシルベニア、テネシーの各戦艦も大損害を蒙りました。戦艦ネバダは攻撃中に湾岸への脱出を試みましたが、数発の爆弾が命中し、そこで擱座して湾の出入り口を塞いではならないと、なんとか湾口外で座礁しました。真珠湾攻撃が熾烈化する中、オアフ島の軍事施設は次々に破壊されていきました。ヒッカム、ホイーラ、ベローズの各飛行場、エバ海兵隊航空基地、カネオヘ湾海軍航空基地、スコーフィールド兵舎では、何百機もの飛行機が破壊され、何百人という将兵が死傷するなど、程度の差こそあれ、それぞれ大きな被害を受けたのです。

約5分後、ようやくアメリカ軍の対空砲火が火を吹き始めましたが、不適切に溶断された爆弾がホノルル市内に雨あられと落下し、市民は日本軍の空襲による爆弾と勘違いした程でした。静まりかけた8時40分頃、日本の第二波攻撃隊が来襲し、真珠湾内の戦艦ショ−、ソトヨモ、浮上の乾ドックYFD−2、大きな被害を受けて座礁ていた戦艦ネバダへの攻撃を続けました。ヒッカム、ホイ−ラ、エバ、カネオヘ飛行場への航空攻撃も続き飛行機は大破し、アメリカ側は何も出来ない状態でした。しかし陸軍航空隊が飛行に成功し、数機が攻撃に飛び立ち、日本機12機を打ち落としました。そして午前10時前、日本の第二波攻撃隊は、370.4キロ北方へ離れた母艦に撤退しました。攻撃は終了したものの、これが第二次世界大戦の始まりでした。

米軍海軍は歴史上最大の敗北を受けました。船舶21隻が沈没又は撃破され、オアフ島の米航空軍力は粉砕されました。米国将兵の死亡は、総計2390名、負傷者数百名。日本軍の損害は、飛行機が29機と飛行士55名、特殊潜航艇5隻と乗組員9名でした。この奇襲でアメリカ国民の世論が一本化し、真珠湾復讐のため「リメンバー・パール・ハーバ−」を合い言葉に団結して立ち上がり、3年半にわたる死闘が続きました。そして1945年、日本帝国の無条件降伏という形で太平洋戦争(米国&同盟国VS日独伊)は終結しました。今では悲惨な戦争を二度と繰り返さないようにと多くの人々は平和を旨にこの記念館にへ訪れます。真珠湾の遺産はいまだ人々の心を痛ませます。

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上の段の「不名誉の日」(The Day of Infamy)とは。

この言葉は、開戦翌日、ルーズベルト大統領がアメリカ議会に対日宣戦布告をもとめた教書の中で呼んだ言葉だ。