案内書で見た桧山滄風寮は民宿。しかしこの名に寮とつくのが不思議だった。

ここは事実上奥尻町が経営している。それは奥尻に住む住民が本土に渡ったときに、一日1〜2往復のフェリーしかないために、奥尻町の住民のための簡易宿泊所としての役割を担っているのだ。

そのため経営に奥尻町の援助があるものの、町の財政も厳しく支援が乏しく、閑期には我々のような旅行客も受け入れている。

そのため建物はたいへん古いが改修の手は伸びていないのが現実であった。

ここを預かる管理人さんの人柄は、これまで触れあった方達とは、全く異なるものであった。

優しく親切で、収入を度外視した、心で経営に当たられていた。親身になっての接客には、人間性溢れる温もりがあった。

お客の中には、長期間の下宿者があったり、奥尻の学生達が本土に渡った時は、大勢を一手に引き受けたり、里親として何人も面倒を見てきたり、常に人のために生きてきたことが、その誠意溢れる言動から滲み出ている。

翌日になってからわかったことであっだが、彼女は尼さんなのだそうだ。

 法華宗 菅野妙瑞(みょうじい)さん

13にん兄弟の7番目に生まれて、苦難の人生であったが、後に僧としての修行に入り、今は上記の称号を持っている尼さんだった。苦労話の一端も聞かせてくれたが、やはり悟りを開いた人の口から出てくる重みある話は、教訓に満ちていて、数多くの人生体験を通して生み出されたものであることに深い感動を覚えた。

ここに宿泊する人の「おかあさん」として長く活躍されていることが、壁に掛けられた写真から推察された。

そこには育て上げてきた子どもや孫達の、全国大会での活躍の様子や地震津波で被災した奥尻島を見舞われた天皇皇后両陛下の写真が飾られていた。

 

 

いっしょに宿泊した1組のご夫婦(78才)。

奥尻島に住む鈴木さんご夫婦だ。お二人とも奥尻島の地震・津波・火災に直接遭遇し、九死に一生を得た貴重な被災状況を、生々しく語ってくれた。

目の前でたくさんの仲間を亡くし、息子の「逃げろ」の一言がなかったら、津波にさらわれていたという。

肌身につけた時計は、当時流されたが、後片づけした時に、マットの間から無傷で発見された。また奥さんの使用しているめがねは1週間後に、ブルトーザーの下から無事で発見されたものだという。近隣や親族の方をたくさん亡くされた中での話であり、時計をさすりながら語ってくれる姿には、強く心を打たれた。

→山盛りの天ぷらやイカ刺し・山菜、そしてホッケや漬け物が豊富に並ぶ夕食の食卓。そこにはさらに、管理人の菅野さんが出してくれた飲みきれないほどのビール。さらにお代わりまでどうぞと言われて、すごく恐縮してしまった。

左は、管理人の菅野妙瑞さん
同宿した奥尻島の鈴木さんの奥さん
車椅子を使用しいる奥さんを介助する家内。
部屋は12畳の日本間で、広々とした開放的な快適な部屋であった。
朝食で、再び菅野管理人さんと鈴木さん御夫妻で、奥尻島の話題について教えて頂いた。
菅野管理人さんの配慮で、昼食のおにぎりを握らせて頂いた。ありがとうございました。
のりや梅干し、サランラップまで用意してくださった。

玄関先でさらに話が弾む

このような民宿でないと、同宿したと言ってもなかなかこのような触れ合いは生じないのではないだろうか。

鈴木さんは、今度来た時は奥尻島に是非寄って欲しいと招かれ、住所もメモしてくださった。

もし次の機会に恵まれたなら、ぜひ訪問してみたいと思う。それまで健康に気をつけて、お互い元気に頑張ろう。

息子は、選抜高校野球で、函館有斗高校のメンバーとして3回全国大会に出場し、その後王子製紙に勤務し、都市対抗野球に置いても活躍したことを物語る記念品等々が飾られていた。

お別れを惜しんで、玄関先まで出て、見送ってくださった。

うれしかった。旅の最高の想い出になった。

あの光景は今も忘れられない。

 

いつか再開したい。