閖上小学校の体育館は、市内各地で回収される被災品の集積場になっていた。

外に積み上げられた運搬に使われた箱には、もの悲しさが残っている。

   

入り口にはこのようなメッセージが掲載されていた。

実際、被災品の中から自分のものを探している方はたくさんいたが、さすがに声はかけられなかった。

   

余震の到来が噂されている中で、それがいつであるのかまったくわからないことから来る恐怖はたいへんなものだ。

自分自身も身が引き締まった。

   
周囲の壁面には、回収され泥が落とされた写真がびっしりと貼られて、元の持ち主に戻るのを待ちわびているようだった。
   
中央部では、アルバム等冊子の手入れが黙々と行われていた。
   
会場の様子を出来るだけ記録に留め、一人でも多くの人に知らせようと必死に撮影を続ける家内。
   
細菌感染から身を守るために、作業には誰もがマスクを着用していた。
   

回収された写真の数が多くなってきて、入り口では1枚1枚張られていた写真が、ひもで吊すことに工夫されていた。

   
体育館の半分のフロアは、アルバムや記念誌など、思い出になるような大切なものを、およその回収地区毎に箱に入れられて整理されていた。
   
ステージ脇には、かって式典で使われたであろうピアノが泥にまみれたままで隅の方に寄せられていた。
   
ステージ上からフロアの全景をビデオに収める家内。
   
思い出の品を探し求める被災者の方々のために、回収された地区毎におよそ区分されていることも、混乱の中とはいえ、人の思いやり、温かさが垣間見える。
   

体育館入り口の靴箱。

本来は履き替えたシューズを収納する場所だが、未だ泥をかぶったままのランドセルが所狭しと並んでいた。

   

名前が記されているはずのランドセル。

しかし未だ引き取り手がないということは・・・。不安をかき立てる悲しい現実を浮き彫りにしている。

   
体育館外に積まれた、被災品を回収してきたときのケースの山。
   

 

2014年3月11日、名取市閖上地区日和山。同じこの場所から見た海方面には、たくさんの重機の姿は見られるものの、3年の月日を過ぎても復興が十分に進んでいる思うにはほど遠いもの

だった。 (2014年3月11日朝日新聞より)

 

 

 

体育館正面に掲げられている時計は、運命のその瞬間を刻んで止まったままだった。
   

同じ痛みを持った仲間同士に伝わる素晴らしい心のこもったメッセージが、ことば一つ一つに感じ取れる。

見つかった場合の籠に入れる被災者の心境はいかばかりだろう。

   

ステージ前には段ボールに書かれた「ようこそ閖上に ありがとう」のメッセージが。

今回の訪問は、私の体調は万全ではなかったが、あまり時間が経過しないうちにと意を決して訪問したが、やはり行動して良かった、と心から思う応対をしていただいた。

   

この日の写真整理グループの作業の様子。

1枚1枚の写真から丁寧に汚れを落としていた。
指先から受け取っている深い悲しみは、彼女たちの背中に感じたが、救われたのは時折明るい談笑の声が聞かれたことだった。

   
左の写真の右側に続く。
   

この写真はステージ上の様子を捉えている。

後ろの壁の左半分にスペースが残されているが、おそらく近々そこも埋まっていくだろうことは、作業の様子からみて容易に予測される。

   

閖上地区外からきているというボランティアの方が、この写真を納めていって欲しいという。

震災前まではこの体育館で響いていたであろう閖上小の児童たちの「魂」の声が聞こえるようだ。

   
たくさん張られた防球ネットの両面にも、すでに手入れが施こされた写真が貼られていた。
   

机の上に並ぶ結婚式の記念写真。

被災者の目が届きやすいにもかかわらず引き取り手を待っているように並んでいた。
早く持ち主に届くことを願うばかりである。

   
ステージへの上り階段にも、小・中学校の記念誌が並べられていた。
   

自衛隊、消防団、地域の方々。作業に関わる全ての人たちが、思い出であるであろう貴重な品々の回収に当たっている。

その膨大さは目を見張るばかりである。

   

これは上の表示でもわかるように、ここに運び込まれたものをまず最初に置く場所である。

直前に回収して運び込まれてきたものだが、ご覧のように泥はきれいに落とされている。回収者の手によってきれいにされて運ばれてきたようで、東北人らしい互いの気配りが心を打つ。

   
この泥にまみれたランドセルは、津波に襲われた児童たちの無念さを物語っている。
   

先祖の位牌を探す人にあった。声はかけられなかったが、背中には悔しさ・寂しさが滲み出ていた。

せめてランドセルと位牌は本人のところへ戻って欲しいと強く願う。

   
2011.03.11 東北地方太平洋沖地震
  私の目が見た  の記録です
       
名取市内から集積された被災品  

 仙台平野南部に広がる都市名取市。名取川・阿武隈川の両水系に囲まれた名取市は、河口に位置する海抜の低い地帯である。肥沃なこの地勢を利用した農耕と海岸部に広がる漁港が、巨大地震による津波に襲われた。一瞬にして全てを流し去った範囲は広大で、瓦礫の排除などの作業に動きが見られたが、被害の大きさから終わりは見えていない。

 瓦礫の処理が進む中で、被災された方々の品々が発見された。生存者の確認や不幸にして一瞬のうちに生命まで呑み込まれてしまったご遺体の捜索は今なお続けれているが、逃げられたとはいえ、着の身着のままの避難だ。全てを失った被災者の縁の品を、瓦礫の中から発見し回収する作業も同時に進められていた。

 思い出を語る写真やアルバム、位牌、衣類など、発見されたされた被災品は、個人に返すためにここ閖上小学校体育館に集められ、ボランティアによる丁寧な泥の除去や日陰干しなどの作業が進められていた。

 体育館で整理・展示・保管等の作業を一手に引き受けている中心は、名取市内のボランティアだった。いくつかの班を構成し、交替でその任に当たっている。市の方ではバスを運行して、交通手段の確保に当たっていた。私の訪問時には、ボランティアの代表である方がたまたま留守で、当時の責任者を務めているという方がぜひ代表に会っていただきたかった、と涙を浮かべてお話をされ、気持ちが痛いほど伝わってきた。2ヶ月以上も過ぎて私どものようなメディア以外のお見舞い訪問はほとんどないらしい。風化しないで欲しい、忘れないで欲しいとの想いが胸に迫る。ちなみにその代表の方はお子さんを亡くされているそうだ。 

       
名取市内 閖上小学校校庭と3階からの眺望 閖上小学校校舎内 名取市内と閖上小中学校全景
       
石巻市内通過で見た惨状 石巻市魚町と石巻漁港 石巻市渡波小学校避難所 我が家の被災